2011年 05月 20日
煩悶 |
東北各地を車で廻りながら、そして地震被害、津波被害の惨状に胸を痛めながらも、一方ですっかり春爛漫の景色を堪能していた私がいたことを告白しなければならない。梅花未だ残る里、桜満開の里、コブシ咲く里、その土地土地によって咲く花の特徴はあるけれど、どこにいってもまず目に飛び込んでくるのは、全体がまばゆいはかりに輝くその新緑の山肌であった。そういえば東北の山々は、関西とくに私の住む紀伊半島などとくらべて、植林地がずいぶん少ないように思った。今回はたまたま季節に恵まれたということもいえるかもしれないが、自然林っていいなあ、広葉樹っていいなあ、と改めて思ったことだった。
そして私は自分の専門(とはオコガマしい)である『竹』の植生を観察することも怠らなかった。タケなんてどこにでも生えているように思うけれど、一般に、南方系の植物であるタケは緯度が高くなるほど分布域が減少する。また寒冷地になるほど、稈(樹の幹のこと)が細くなっていく。ところによっては竹から笹へと植生の優位が逆転する。事実、種山が原近辺ではほとんど竹が見られなかった。代わりに葉ぶりの立派なネマガリダケかミヤマザサの類いが見られた。
煩悶ですか
煩悶ならば
雨の降るとき
竹と楢との林の中がいいのです
(おまへこそ髪を刈れ)
竹と楢との青い林の中がいいのです
(おまへこそ髪を刈れ
そんな髪をしてゐるから
そんなことも考へるのだ)
(「竹と楢」宮澤賢治『春と修羅』より)
別に、ここにいう「竹」が笹の類いであったのではないかなどと問題提起するつもりではない。そもそもこの詩の舞台が種山が原だという証拠はないし、そうでないとしたら、花巻や盛岡近辺には竹はまあ普通にみられたから、ここでいう竹がどんな竹であったかを特定するのは難しかろう。けれども私は岩手の山野を運転しながら、しきりにこの短詩が頭に浮かんできて仕方がなかった。
「竹」だから?(竹は私の生涯のテーマである) 「竹と楢」だから?(いま私は「木に竹を接ぐプロジェクト」を実施中である) 問答体だから?(近日、私は「BAMとBOOの物語」という対話体コントを発表する予定である)、、、 いやいやどれも当たっているが、どれも言い尽くしてはいない。おそらく「煩悶」というたった一つの抽象名詞に振り回されているのだ。最終行にいう「そんなこと」ってどんなことだろう? 賢治研究家の間では結論が出ているのであろうか?
実はこのとき、私は私自身の「竹と楢の林」を探していたのであった。
BAM その終わり方こそ抽象的ですな。
BOO まあまあ、そう中傷すんなって。
そして私は自分の専門(とはオコガマしい)である『竹』の植生を観察することも怠らなかった。タケなんてどこにでも生えているように思うけれど、一般に、南方系の植物であるタケは緯度が高くなるほど分布域が減少する。また寒冷地になるほど、稈(樹の幹のこと)が細くなっていく。ところによっては竹から笹へと植生の優位が逆転する。事実、種山が原近辺ではほとんど竹が見られなかった。代わりに葉ぶりの立派なネマガリダケかミヤマザサの類いが見られた。
煩悶ですか
煩悶ならば
雨の降るとき
竹と楢との林の中がいいのです
(おまへこそ髪を刈れ)
竹と楢との青い林の中がいいのです
(おまへこそ髪を刈れ
そんな髪をしてゐるから
そんなことも考へるのだ)
(「竹と楢」宮澤賢治『春と修羅』より)
別に、ここにいう「竹」が笹の類いであったのではないかなどと問題提起するつもりではない。そもそもこの詩の舞台が種山が原だという証拠はないし、そうでないとしたら、花巻や盛岡近辺には竹はまあ普通にみられたから、ここでいう竹がどんな竹であったかを特定するのは難しかろう。けれども私は岩手の山野を運転しながら、しきりにこの短詩が頭に浮かんできて仕方がなかった。
「竹」だから?(竹は私の生涯のテーマである) 「竹と楢」だから?(いま私は「木に竹を接ぐプロジェクト」を実施中である) 問答体だから?(近日、私は「BAMとBOOの物語」という対話体コントを発表する予定である)、、、 いやいやどれも当たっているが、どれも言い尽くしてはいない。おそらく「煩悶」というたった一つの抽象名詞に振り回されているのだ。最終行にいう「そんなこと」ってどんなことだろう? 賢治研究家の間では結論が出ているのであろうか?
実はこのとき、私は私自身の「竹と楢の林」を探していたのであった。
BAM その終わり方こそ抽象的ですな。
BOO まあまあ、そう中傷すんなって。
by konchikusho
| 2011-05-20 06:02
| 宮沢賢治