2006年 01月 23日
人形芝居 |
水上勉原作「越前竹人形」は、いまから三十年程前に水上氏本人が構想し立ち上げた竹人形座にとっては、まさに象徴的にして記念碑的な作品である。それはまさに越前で竹の人形作りに一生を託す氏家喜助を主人公にしているからだ。ストーリーは、一言でいえばこの喜助と京の遊女玉枝との純愛もの。二人はめでたく結ばれるが、そこにサキヤマという玉枝の過去を知る元ナジミ客が現れて、翻弄するも、やはり二人の絆は堅かったという、まとめてしまえばなんということもない話だが、これを文学として昇華させるのは並み大抵の力量ではあるまい。まして舞台表現となると、筋が単純単調なだけに演出家や人形遣いに文章表現とはまた別の説得力が要求されることだろう。
その点、今回の若州人形座公演は、ヤツガレのような一素人をも十分堪能させてくれた。開幕から終幕までの小一時、たしかにヤツガレを日常とは別の次元に誘(いざな)ってくれた。
だから、打ち上げの席では素直に感激していればいいものを、演出家幸(みゆき)氏を相手に余計な感想を漏らしたかも知れない。
それは、偏に悪玉サキヤマの存在であった。酌量の余地のない、あまりにも卑劣であまりにもわかりやすい悪役なのが気に入らないというのだ。
芝居としても不愉快だとまで言ってしまったかも知れない。(となりのテーブルに故水上氏の娘、蕗子さんのおられることを忘れていた)
「善人ばかりが出てくる芝居ってないものでしょうか?」
幸氏も酔っ払い相手に困った風だったが、
「あなた『フーテンの寅サん』すきでしょう?」
逆に問い返されてしまった。
ヤツガレ、『寅さん』嫌いじゃないけれど、どちらかというと『まあだだよ』とか『ライムライト』を念頭においていた。
宮沢賢治の作品にも触れて、「雪渡り」を例にコメントしていたが、ヤツガレのいう善人ばかりが登場してそれでいて芝居になる世界ということで念頭にあったのは例えば『土神と狐』だった。
蕗子さんは安珍と清姫にふれていたが、たしかに『道成寺』もいい芝居である。
善人ばかりというのは、かならずしも楽園のようなイメージなのではない。
「皆自分に正直で他者にけっして悪意はないのに思わぬ不幸を招く」、そこに芝居が成り立つ。
なんとなくおわかりいただけるだろうか?
たぶんよくわかっていただけないまま、一足お先に席を立たねばならなかった。
その点、今回の若州人形座公演は、ヤツガレのような一素人をも十分堪能させてくれた。開幕から終幕までの小一時、たしかにヤツガレを日常とは別の次元に誘(いざな)ってくれた。
だから、打ち上げの席では素直に感激していればいいものを、演出家幸(みゆき)氏を相手に余計な感想を漏らしたかも知れない。
それは、偏に悪玉サキヤマの存在であった。酌量の余地のない、あまりにも卑劣であまりにもわかりやすい悪役なのが気に入らないというのだ。
芝居としても不愉快だとまで言ってしまったかも知れない。(となりのテーブルに故水上氏の娘、蕗子さんのおられることを忘れていた)
「善人ばかりが出てくる芝居ってないものでしょうか?」
幸氏も酔っ払い相手に困った風だったが、
「あなた『フーテンの寅サん』すきでしょう?」
逆に問い返されてしまった。
ヤツガレ、『寅さん』嫌いじゃないけれど、どちらかというと『まあだだよ』とか『ライムライト』を念頭においていた。
宮沢賢治の作品にも触れて、「雪渡り」を例にコメントしていたが、ヤツガレのいう善人ばかりが登場してそれでいて芝居になる世界ということで念頭にあったのは例えば『土神と狐』だった。
蕗子さんは安珍と清姫にふれていたが、たしかに『道成寺』もいい芝居である。
善人ばかりというのは、かならずしも楽園のようなイメージなのではない。
「皆自分に正直で他者にけっして悪意はないのに思わぬ不幸を招く」、そこに芝居が成り立つ。
なんとなくおわかりいただけるだろうか?
たぶんよくわかっていただけないまま、一足お先に席を立たねばならなかった。
by konchikusho
| 2006-01-23 19:11
| 生(所感、雑感)