2011年 05月 14日
三陸遠征 三日目 |
翌朝、早起きして一路、宮古へと向かう。目指すは宮古市立千徳小学校。京都の小林さんの紹介で、そこの校長先生と出会う予定である。小林さんとその校長先生は子ども同士が大学時代に親しくしたとかいうことでのつながりだそうだが、私が今回の帰郷そして三陸遠征の計画を小林さんにお話しした時、もし宮古まで足を伸ばすことがあれば、、、という控えめな申し出から話が始まって、なるほどなるほどそういうことなら是非ということで訪問を決意した。もっとも私が何日何時に確実に宮古に入れるかどうか分からなかったので(事実、予定通りにはならなかった)、先方には事前にご連絡せず、出たとこ勝負の突撃訪問である。 ご覧の通り、朝八時に着いたが、人の気配はない、なんのことはない、思えば今日は日曜日だった。どうしよう?と思った時、一人の若い先生が現れた。事情をお話しして、校長先生に連絡を取っていただいた。校長先生は、突然で驚かれた様子だったが、すぐに来てくださった。こちらの小学校もやはり震災の影響で入学式が遅れた。いよいよ明日(四月二十五日)に迫ったというお忙しいに違いない日に来合わせてしまったのだが、校長先生は快く面会してくださった。当時、授業時間の最中に起った大地震、その直後の避難状況をお話しくださり、またそれから以降の一ヶ月の様子を説明してくださった。こちらの小学校は津波の直接の被害は受けなかったのだけれども、被害地域からの小学生の受け入れに対応しなければならない。臨機応変の対応、それは小学校だけの問題ではなく、宮古の街全体が、将来の復旧見込みも含めて、まったく未知数であること、それでもすでに前向きに進み始めていることなど、お話しくださった。さらにその足で、宮古の社会福祉協議会、市役所にも案内してくださった。担当の方を紹介してくださり、持参した支援物資(新古衣料品、食料品)をとどけることが出来た。また今後の支援に参考になる的確な情報を得ることが出来た。それもみな校長先生のおかげである。この場を借りて御礼申し上げます。(そして今回のことをご縁に、今後末永く個人支援を続けたいと考えております。)校長先生には小林さんからのお見舞い(先生は義援金として受理)をお渡しして、お分かれした。(私からも梅干しとジャムを。)
後ろの建物が宮古市役所。海沿いに位置しているためご覧の通り大打撃。一階は全く使い物にならず、二階が市民相談窓口、三階が支援物資関係を扱う生活課となっていた。
これで今回、私が個人的に計画した三陸地方への(お見舞い、支援を兼ねた)取材旅行はひとまず完了した。被災地全体からみれば、私の見たこと聞いたこと、そして経験したことなぞはほんの一部のことかもしれない。が、自分としては実りの多い旅だったと思う。新聞、テレビ等、メディアだけの情報ですべてがわかったような気にならないで、現場に自ら「行く」ということがやはり大切なのではないか? 賢治が『雨ニモマケズ』で「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクトモイイトイヒ」と詠んだように、「行ッテ」という行為、行動姿勢、(これは先日の京都でのイベント『イーハトーブ・プロジェクト』でも講演者の浜垣氏が強調されていたことだったが)、これが重要なポイントなのではないか、とも考えるのである。おやおや、またもや賢治が私の前に現れる。
宮古を離れ、帰路に着く。途中、気仙沼のA君のところに今一度立ち寄って、残った支援物資をすべて託してしまうと車も軽く、心も軽くなった。後は宜しく。
一関から高速に乗って、まっすぐ帰宅。福島の家に着いたのが午後九時過ぎ。割と早かったので家で晩飯が食えた。『晩飯食う』なんか言っちゃいけない。晩ご飯をいただいて、そして久しぶりに布団で眠ったことでありました。感謝。
これで今回、私が個人的に計画した三陸地方への(お見舞い、支援を兼ねた)取材旅行はひとまず完了した。被災地全体からみれば、私の見たこと聞いたこと、そして経験したことなぞはほんの一部のことかもしれない。が、自分としては実りの多い旅だったと思う。新聞、テレビ等、メディアだけの情報ですべてがわかったような気にならないで、現場に自ら「行く」ということがやはり大切なのではないか? 賢治が『雨ニモマケズ』で「東ニ病気ノコドモアレバ 行ッテ看病シテヤリ 西ニツカレタ母アレバ 行ッテソノ稲ノ束ヲ負ヒ 南ニ死ニサウナ人アレバ 行ッテコハガラナクトモイイトイヒ」と詠んだように、「行ッテ」という行為、行動姿勢、(これは先日の京都でのイベント『イーハトーブ・プロジェクト』でも講演者の浜垣氏が強調されていたことだったが)、これが重要なポイントなのではないか、とも考えるのである。おやおや、またもや賢治が私の前に現れる。
宮古を離れ、帰路に着く。途中、気仙沼のA君のところに今一度立ち寄って、残った支援物資をすべて託してしまうと車も軽く、心も軽くなった。後は宜しく。
一関から高速に乗って、まっすぐ帰宅。福島の家に着いたのが午後九時過ぎ。割と早かったので家で晩飯が食えた。『晩飯食う』なんか言っちゃいけない。晩ご飯をいただいて、そして久しぶりに布団で眠ったことでありました。感謝。
by konchikusho
| 2011-05-14 03:52
| 生(所感、雑感)