2010年 05月 31日
知力の低下を嘆く |
前回は体力の衰えを話題にしたが、今回は知力について。
物覚えが悪くなったと嘆く同年代の友人知人は多い。人の名前から新語、流行語、その日の買い物リストなど、とにかく新しく覚えなければならないものに対する記憶力が見事に低下してしまった。買い物リストは紙にメモしておかなければ絶対に忘れる。たくさんあったら必ず一つ二つ買い忘れるし、ひどいときにはたった一つの買い物でも「なに買うんだっけかなあ?」と買い物に出てからうろたえる始末。だいたい何かのコトバや文章を記憶しようと思ったら、実際に口に出して朗誦復誦しないと頭に入って行かない。むしろ黙読して理解するというのが難しくなって来た。これは確かに人間の老化の一つの兆候であろう。
そしてまた最近気がついたのは、単純な算数が出来なくなって来たことだ。かけ算、引き算は勿論、一桁の加減法もあやしくなって来た。たとえば、
5+6+7+9+2+8-7+9-5+1-4+3-5+8+8+2・・・・・・
などという暗算に自信がなくなって来た。いま試みに目算してみても、一の位は計算できても十の位、百の位を覚えていられないのではないかというような気がする。まして「ねがいましてはー、、、」などと追い立てられたら、瞬時にゆき詰まることになるに違いない。
昔は、
59+47+81-94+55+23-17+34-29-19+46・・・・・
くらいの暗算は出来ていたような気がするのだが。(ちなみにソロバンは三級止まり)。
ソロバン(算盤)で気がついたが、この計算能力の衰えは、電卓の普及とも関係があるような気がする。時には必要に迫られて大量の計算をしなければならないことがある。例えばついこの間はGワークス「ねんいち展」での個人プロジェクトとしてヘロンの公式というのを取り上げたのだが、これは加減乗除に加えてルート計算が入っているので計算機を使わないわけにはいかず、電卓と首っ引きで数時間かけて仕上げたものだった。その際感じたことだが、単純作業を続けていると電卓に入力してから「なんでこんなもの(たとえば20+30)まで計算機に頼らなければならないのか?」とおもってはっとすることが屢々だった。計算は皆向こうがやってくれるので、自分はもう機械の一部となってしまって自分自身の頭をまるで使っていないのであった。
「あたまでソロバンをはじく」という言い回しがある。意味を尋ねれば余りいい意味合いの表現ではないのだろうが、ソロバンをはじくという場合、玉があっちいったりこっちいったりビジュアル的にも自分の頭や心を働かせているイメージがあるが、電卓ではなんだか頭のなかにブラックボックスがひとつぽんと浮かんでいるようなイメージがあるだけで、なんだか薄気味悪い。数字(データ)を打ち込んでも箱の中にあるどこか他所から答えがやってきてそれをこちらは待っているだけ、そこに自分というものはない。
とすると、これは老化現象と関係ない。いわば精神における生活習慣病とでもいい得るものである。ヤツガレなんかはもう耄碌ジジイの領域に入りつつあるから仕方ないけれど、若い人たちがこの習慣に染まってしまっていたとしたら、そりゃ末恐ろしいことですよ。
物覚えが悪くなったと嘆く同年代の友人知人は多い。人の名前から新語、流行語、その日の買い物リストなど、とにかく新しく覚えなければならないものに対する記憶力が見事に低下してしまった。買い物リストは紙にメモしておかなければ絶対に忘れる。たくさんあったら必ず一つ二つ買い忘れるし、ひどいときにはたった一つの買い物でも「なに買うんだっけかなあ?」と買い物に出てからうろたえる始末。だいたい何かのコトバや文章を記憶しようと思ったら、実際に口に出して朗誦復誦しないと頭に入って行かない。むしろ黙読して理解するというのが難しくなって来た。これは確かに人間の老化の一つの兆候であろう。
そしてまた最近気がついたのは、単純な算数が出来なくなって来たことだ。かけ算、引き算は勿論、一桁の加減法もあやしくなって来た。たとえば、
5+6+7+9+2+8-7+9-5+1-4+3-5+8+8+2・・・・・・
などという暗算に自信がなくなって来た。いま試みに目算してみても、一の位は計算できても十の位、百の位を覚えていられないのではないかというような気がする。まして「ねがいましてはー、、、」などと追い立てられたら、瞬時にゆき詰まることになるに違いない。
昔は、
59+47+81-94+55+23-17+34-29-19+46・・・・・
くらいの暗算は出来ていたような気がするのだが。(ちなみにソロバンは三級止まり)。
ソロバン(算盤)で気がついたが、この計算能力の衰えは、電卓の普及とも関係があるような気がする。時には必要に迫られて大量の計算をしなければならないことがある。例えばついこの間はGワークス「ねんいち展」での個人プロジェクトとしてヘロンの公式というのを取り上げたのだが、これは加減乗除に加えてルート計算が入っているので計算機を使わないわけにはいかず、電卓と首っ引きで数時間かけて仕上げたものだった。その際感じたことだが、単純作業を続けていると電卓に入力してから「なんでこんなもの(たとえば20+30)まで計算機に頼らなければならないのか?」とおもってはっとすることが屢々だった。計算は皆向こうがやってくれるので、自分はもう機械の一部となってしまって自分自身の頭をまるで使っていないのであった。
「あたまでソロバンをはじく」という言い回しがある。意味を尋ねれば余りいい意味合いの表現ではないのだろうが、ソロバンをはじくという場合、玉があっちいったりこっちいったりビジュアル的にも自分の頭や心を働かせているイメージがあるが、電卓ではなんだか頭のなかにブラックボックスがひとつぽんと浮かんでいるようなイメージがあるだけで、なんだか薄気味悪い。数字(データ)を打ち込んでも箱の中にあるどこか他所から答えがやってきてそれをこちらは待っているだけ、そこに自分というものはない。
とすると、これは老化現象と関係ない。いわば精神における生活習慣病とでもいい得るものである。ヤツガレなんかはもう耄碌ジジイの領域に入りつつあるから仕方ないけれど、若い人たちがこの習慣に染まってしまっていたとしたら、そりゃ末恐ろしいことですよ。
by konchikusho
| 2010-05-31 23:49
| 生(所感、雑感)